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読んだ本 PR

「生命あふれる大地」保苅実 

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「本当にやりたいことだけをやる。」そう自分に言い聞かせているという保苅実の2作目の本である。本来ならみずき書林から出版予定だったのだが、一人社長の岡田林太郎さんが2023年7月に他界したため、彼の後輩の出版社から出された本だ。

私が保苅実を知る切っ掛けになったのは「岡田林太郎」の著書「憶えている」である。岡田さんが保苅実を慕っているし、心の師としていたことを知った。1作目の「ラディカル オーラル ヒストリー」も読んだ。こちらは歴史学者の彼らしく、内容が専門的であった。

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保苅実は32歳で夭折した歴史学者である。2003年7月に悪性リンパ腫になり翌年5月に他界した。進行の早い病気であったことが伺える。本人は「やりたいことをやってきたから、後悔はない。ただ、司馬遼太郎が40代が一番楽しかったと書いていたので自分も40代を生きてみたかった」と言っていたという。

才能溢れる若き歴史学者の本を読んでいて感じるのは、その文章力の素晴らしさである。そしてその人柄。文章には人柄が溢れる。保苅さんはちょっと人なつっこくて、情熱的、それでいて知的好奇心が強く丁寧に物事を探求していくような人だったように思う。そして世の不条理にも憤りを持っていた、そうとも感じる。そんな彼の本の中から私自身に響いた部分を紹介したい。

「生命あふれる大地 アボリジニの世界」

ここからの文章は保苅さんが2003年6月から10月まで連載された「新潟日報」からである。この「生命あふれる大地」は保苅実が発表したいろいろな文章がまとめて掲載されている。

その中にこの連載が含まれている。
彼のことを知るにはうってつけの連載である。

「ほんとうにやりたいことだけをやる。」そう自分に言い聞かせている。新潟を飛び出したくて東京の大学に進学。しばらくして、今度は日本にいたくなくなってオーストラリアに渡った。気がつくと、オーストラリアの先住民アボリジニとともに暮らし、彼らの文化と歴史を学んでみたいと真剣に思うようになっていた。

これを読んで羨ましい、そして懐かしい・・・と思った。
私も海外にでて、生活したいという思いが大学卒業時にあったように思う。それを思い出した。保苅実と私は同年代。世界への憧れは今よりずっと強い時代だった。
実際、親友は青年海外協力隊で海外に住むことを選択した。そんな彼女をみて「新卒でないと就職が難しいよ。海外に行ってその後どうするの?そんなの不安で私にはできない・・・」と思ったことを思い出す。
保苅さんは「やりたいことだけをやる」んだから、私のような守りの姿勢には「?」マークだろうなと。「良いな・・」と思ってそれがそのまま行動に出せる人っていうのは、希有な存在で、動ける人はそれでも大丈夫と運命がなっているんだろうな。
私もなっていたのかもしれないけど、今回の私の人生のシナリオはそうなっていなかった。それだけの話。

さて続きは

閉塞感ただよう時代状況ではあるが、アボリジニもまた21世紀の始まりを僕らと共有している。なんと喜ばしいことだろう。「人生なるようにしか、ならない」などと言って、シニカルになっている暇などないのだ。僕はオーストラリアでの体験を通じて、自由で危険な広がりの中で一心不乱に遊びぬく術を学び知りたいと思っている。

この「自由で危険な広がりの中で一心不乱に遊びぬく術を学び知りたい」。
核心的な言葉。

保苅実の生き方そのものだろうと思う。一心不乱、惹かれる言葉だ。一心不乱なんてなかなかなれないものだ。そして遊び抜くこともむずかしいよ。だから学び知りたいと思ったんだ。私も学び知りたいよ、保苅さん。

孤独について

保苅氏はオーストラリア大陸を一人で何度も行き来していたようだ。孤独にどっぷりつかっていた彼だが、彼は彼なりに孤独の心地よさを見つけていたようだ。以下、私がよく思っていることを彼が書いてくれていたので載せておく。

車の免許がなかった当初は、バイクで走っていた。

・・・

炎天下の中、丸1日バイクや車を走らせる。まっすぐな道を何時間もただ黙って走り続けていると、気が遠くなって頭がおかしくなる(ように感じる)。そういえば何日も声を発していない。わざと声を出してみると、耳にコトバが聞こえてくる。大丈夫ダイジョウブ。

そんな彼が、ある日山火事に遭遇した。

燃えさかる炎の背景には、まばゆいまでの満月が浮かんでいる。オレンジ色に燃える大地と、立ち上る黒煙の隙間に輝く月は、圧倒的な美しさで僕を混乱させた。「この眺めを誰かと共有したい」と切に思うが、もちろん誰もいない。・・・僕はたっだ一人でその光景にすっかり魅了され、立ち尽くしていた。

だが後になって思うのだが、もしあのとき友人と一緒だったら、きっと「わー、きれいだねぇ」とか「逃げ途方がいいんじゃない?」とかいう話をして、目の前で起っている炎と月光の奇跡的な共奏を深く見に刻み込むことができなかったのではないだろうか。自己を風景に完全に明け渡していた僕は、(あとで真剣に後悔したのだが)写真を撮ることすら忘れていたのだ。

立ち上る煙のむこうから満月が僕を見下ろしていたあの数十分間の間だけ、僕は詩人になれていたのかもしれない。・・・孤独と付き合うことで、人は思いもよらない仕方で世界をつながることができる。毎日の暮らしに騒々しく追い立てられる日常生活のなかで、人はどのようにして、詩人的に生きる瞬間を確保してゆけるのだろうか

保苅さん、今の時代SNSなるものが幅をきかせてますよ。孤独な時間なんて、意識して求めない限り得ることができない時代になりました。しかも相当に強い意志力を求められます。みんな暇さえ有れば、スマートフォンをつついていますよ。駅での待ち時間、電車の中、みんなスマートフォンを見ていて、(自分もみてることがあって、)時の流れを感じちょっと滑稽に思っています。あなたの生きた時代から20年、技術は進歩しました。でもその技術が便利さをもたらした反面、脳をバカにするらしいです。やれやれ・・・

私は一人、話しかけてしまった。

今や孤独は貴重だ。
静けさも貴重だ。
ほっとけば、脳は刺激を求めて暴走してしまう。暴走するように技術が仕向けている。
便利な時代、恐ろしい時代になったものだ。

アボリジニの人たちの素敵さ

アボリジニの人たちについての記載で、なんて素晴らしい人間性!と感動した部分があるので紹介したい。

ダグラグ村から見える小さな丘がある。かつて、白人に追われたアボリジニの人々は、この丘に逃げ込んだ。すそ野を周回しながら、ライフルを撃ち続ける白人に対して、アボリジニたちは丘の上から槍を投げて応戦した。多数が死んだ。長老たちは、ライフルを構える白人の格好を真似しながら
「やつらは、犬でも撃つかのようにわれわれを撃ち殺していった。」と言った。
それでも、かれらは歪まない。長老たちは、まっすぎに怒った後に、まっすぐに笑う。「もうあんなことはあってはならない。お互いに学びあって、一緒に暮らしていけばいい。そのほうがずっといい。」そう言って笑っている。

アボリジニの人たちが仲間を殺されても歪まない・・・というのが凄いと思った。毒は親から子へ、歪みは続いていくという話を聞く。

彼らは歪まない。

何故か?大地を話せるからかもしれない。ドリーミングという精神性を持っているからかもしれない。この天真爛漫さは現代人は見習う必要があろう。

「まっすぐ」怒り、「まっすぐ」笑う。この「まっすぐ」が好き。
私は日常生活でまっすぐ怒り、まっすぐ笑ってるかな?

保苅さんが存命であれば、アボリジニの人たちの特性の原因も解明されたかもしれないな。みんなアボリジニの人たちのような感性なら、戦争は起ってないだろうに。

保苅さん、先進国の中でも3ヶ所で戦争してるんですよ。
ウクライナとロシア
イスラエルとハマス
中国と米国の冷戦
やれやれですよね。

技術の進歩は素晴らしいが、人間性の進歩はそれに追いつけてないようです。