「孤独」は好きですか?
「孤独」と聞いてあなたはどう感じますか?
なんか寂しくて嫌だな・・・
とか思ったりするのだろうか?
この本は著者が孤独について
思うことを述べているエッセイだ。
孤独に関する意見が、
かなり私と一致する。
ここまで的確に表現できる
文章力はさすがだ。
著者は
「1957年生まれ。
大学工学部建築科で研究をするからわら、
作家として次々とヒットを飛ばす人気作家。」
そして今はどうやら、田舎に引きこもって
毎日自由に孤独を楽しんでいるという。
なんともうらやましい。
家族はいるようなので
純粋に一人ではないようだが
その生活スタイルには憧れる。
「孤独」の美味しさ、
素晴らしさ
味わっていきたいものだ。
さて、その「孤独」とは如何なるものなのか。
どうやって出来上がるものなのか、
考えてみたい。
仲間や友達の喪失というのは、結局は、自分を認めてくれる存在の喪失である。だから、仲間や友達がまだすぐ身近にいても自分が認められていないことが判明したときに、それが失われる、ということになる。
ここで大事なことは、他者が自分を認めていない,という判断は、自分の主観によって行われるということだ。
したがって、自分が認められていない、と言う判断は、多分に主観であるから、自分で自分の寂しさ、孤独感を誘発することになる。仲間の中にいても、孤独を感じることになる。それは、たとえば、都会のような大勢がいる場所でも孤独になるということだ。孤独とは基本的に主観が作るものなのである。
そういうことだ。
自分が受け入れられない、認めてもらえないと自分で感じることが孤独の正体である。
他人に認めてもらっていないと感じる主観、それは勘違いかも知れないし事実かも知れない。だが、人間関係においては認めてもらえることが重要なのだし、認めてもらっていると主観で感じることが大事なのだ。
そうでないと、人は孤独を感じてしまう。
人に認めてもらうためにはどうしたら良いのだろう?
情報や技術をもっている。
他人の役に立つ。
良い子でいる。
他者にないものを持っている、いわゆる凄い人間になる。
他人にとって利益のある人間になる。
などが考えられる。
だがそこまでして埋める孤独とは一体何なのか。
著者は孤独は虚構であるという。
虚構が崩れるのは、その虚構が現実の他者に支えられている構造を持っているときだ。他者に依存しているため、その他者の行動が自分のイメージに反していれば、虚構が成り立たなくなる。
大事なことは、そのダメージを受けたとき、つまり、寂しいとか孤独だなと感じたときに,自分がどんな虚構の「楽しさ」を失ったのか、とかんがえてみることである。
そのうえで、更に考えるべき事は、その「楽しさ」がそもそも実在したものなのか、と確認する作業ではないかと思う。
死に直結するわけでもないのに、どうして、我々の多くは孤独をそれほどまでに怖れるのかという問題である。この傾向は特に若者に多い。
僕は、そういった孤独感が、主として外界の観察不足と本人の不自由な思考から生じるものだと感じていて、「思い込み」を取り除くことと、少し「考えてみる」ことが、危機的な孤独からの脱出の鍵になると考えている。
著者は考えることで、孤独を怖れなくなると考えているようだ。
寂しいとどんな悪いことがあなたに起こるのか?
そこから考えてみることを提案する。
確かに別に悪いことは起こらない。
死ぬわけでもないし、
ケガするわけでもないし、
お金がなくなるわけでもない。
著者も単に思い込みだけで、
寂しいことが悪いことという先入観だけで
「寂しさ」を必要以上に悪く捉えていると分析している。
そう、アニメやドラマ、エンターテイメントが
すべて安易な感動に走っているのだ。
涙が出て泣ければ感動したと勘違いしている。
泣けるなど殴られれば痛いと感じると同じくらい単純な反応なのだという。
家族愛、友情、助け合って協力していくことの素晴らしさなど、
一辺倒にステレオで吹き込まれると
それがいつしかその人の常識となり、
それに合致しないと自分はダメだと早合点することになる。
やはりここでもメディアに人間はやられていた。
恐るべし。
みんなと仲良く。
みんなで一緒が素晴らしい。
人気者が価値がある。
そんなところか。
ドラマなんかで四六時中そんなものを見せられると
洗脳もやむなし。
あまりにもメディアに流れる情報が一辺倒だ、ということに最大の問題があるのだろう。たとえば、家族にも友達にも関係なく力強く生きている人を描くことがあるだろうか。友達や家族に裏切られても、自分一人で楽しく生きる道があると教えることがあるだろうか。どうしてもそういうものは寂しさを伴ってしか表現できない。
私も毒されている。
他人が苦労話などしていると、オーバーに気の毒がってしまう。
そうすることで
その場が穏やかに進むと
無意識下で感じているようだ。
ここで更に考えてみる。
そもそも「楽しさ」と「寂しさ」というのは、光と影であって、どちらかだけが存在するものではない。
それは、波のように揺れを繰り返す運動の、上のピークと下のピークでしかない。楽しさがあるから、寂しさを感じるのだし、また、寂しさを知っているから、楽しいと感じるのである。・・・
どちらが悪いというのではなく、賑やかで楽しい時間も、静かで寂しい時間も、いずれも必要なのではないか。そして、どちらに偏ることのない変化こそが、まさに「生きている」面白さ、醍醐味であって、苦しみのあとに楽しみがあり、賑やかさのあとに静けさがある。その変化こそが「楽しさ」や「寂しさ」を感じさせるといえる。前章で孤独とは楽しさを失う感覚だと述べたのは、結局は、失うというその変化が、寂しいと感じさせる根源となっている、ということであり、逆に言えば、楽しさは、苦しさや寂しさを失ったときに感じるもの、となる。
とても素敵な考え方だ。
そして更に、
悪は善のからの変化であり、善とは悪からの変化であるのだから、すなわち、寂しさがもしマイナスだとすれば、それはプラスあってのマイナスだと捉えなおすことができる。
しかも、こういった変化は当然ながら、生きているうちは繰り返される。まさに「波動」なのだ。ということは必然的に、「寂しい」「孤独だ」と感じることが、そののち訪れる「楽しさ」の準備段階なのである。「いけない」というのも「良い」状態へのジャンプのために屈んでいる瞬間なのであって、多少の苦労というか面倒はつきものだ。このように「孤独」を感じたときには、それだけこれから「楽しさ」があるというふうに解釈すれば良い。それを知っている人が「さび」の世界に浸ることができる。その余裕があり、それが「美」でもある。
孤独は美に通じる。
孤独は美しい。
このフレーズは心に響いた。
そもそも他人のことを「なんか、あの人、寂しいよね」と評することが間違っている。勝手な思い込みで、一人でいることは寂しいこと、寂しいことは悪いこと、と言う処理を考えもせずしているだけなのだ。
同じ価値観で返せば、そういう「考えなし」こそが、人間として最も寂しいのではないか。
人を見た目で、寂しい人って馬鹿にしていないだろうか?
考えてみる。
そうのように軽率に判断する傾向がある。
それに思い当たる。
私は物事を考えていない、考えることを面倒がっている・・・・
これはよくない傾向だ。
人間はあれこれ判断する、
これが良くも悪くも
人の心に色を付けていく。
子供の頃は何も判断しなかった。
わからなかったからだ。
それが生きていくうちに
経験が蓄積され
それぞれの基準ができて
判断するようになる。
動物は判断しない。
そのままだ。
その姿に学ぶことがあるように思う。
珠