「死」について
これを自分事として
真摯に向き合っているかどうかで
生き様が変わってくる
(かもしれない)
と感じている。
先日、読破した
「無意識がわかれば人生は変わる」
この本の中にも
死、
死生観について
述べられた箇所があった。
メンタルモデルは人間の内面にある「死にたくない」という抵抗を受け入れることでもあると思っています。
人はいつか死ぬ。だから、自分の生命をまっとうするんだという死生観。この感覚を取り戻すには、わたしたちを無意識のうちに動かしている生存OSが邪魔になる。そこをどうしたら自覚できるのかということなんです。
戦いの原動力は不安と怖れ。「本当に死ぬかもしれない」という局面に至れば、文字通り死ぬ気で戦うのでしょう。でも、いずれみんな死にます。その事実を受け入れたら、そうまでして争う必要はない。どうせいつかは死ぬのですから。
頭ではわかっているはずなのに、その感覚で生きてはいないということだと思います。死を前提にして「今をまっとうする」感覚で生きていたら、生存適合OSは人間を動かすことはできません。
「できるだけ死を避けたい、延命したい」と抗っているうちは、無意識のOSにのっとられてしまいます。死から遠ざかることが良くて、近づけるものは悪いという二元論の戦いから逃れられない。仕事やお金への不安も、すべて死に近づく感覚として認知される。困難が生じること予測し備えれば備えればうまくいくはず、という脳の働きがいき過ぎていると思えます。そのためには未来の悲観シナリオを思い描かなければならない。多くの人はその悲観シナリオを避けるために今を生きてしまっている。
助け合って生きればいいんですけどね。
昔は日本でも、つながりこそが安心だったんですよね。でも、いつしか「つながりよりはお金の方が安心できるのではないか」という幻想を抱くようになった。やがて、それが、お金がなくなることへの恐怖に変わってしまい、何のために働いているのかわからなくなっている。自分と家族が死なないためにはそうするしかないと必死になっている。それでは幸せになれないでしょう。
この本では
地球上にすんでいるみんなが、助け合えば
全員が豊かになれることができるんじゃないか、
それができないのは、
意識の幅が狭いからだと
話している。
この意識の幅っていうのは
どう生きるか、
どう在るかという
beingの
有り様のことから派生する
認識できる事柄の
幅、
大きさのことかなと思う。
とある方が
「真面目に死を意識するだけで、死はその人を聖人にしてしまうかもしれません」と
書かれていた。
「明るく死を意識すること」
この大切さを思う。
人間は限りある時間を意識することで、
はじめて
イキイキと本来の姿に
なれるのかしれない。
「必ず死ぬ」
「人間の死亡率は100%」
それは自明なことなのに、
それを真正面から受け止められない。
死は怖い、
死んだらどうなるの?
わからない、
わからないから
怖い。
死んだら無くなるのか?
「私」は
今ココで考え存在している
私はどうなるの?
このことは考えてもわからない。
そのときにならないと、
わからない。
神様は大いなる謎を最期に残してくれた。
生きてる人間には絶対に解けない謎。
死についてわからないからといって諦めるのと
死を真正面から受け止めないは
全く違う。
死を目前に見た人は
誰しも
残された時間をこよなく
愛おしく思うことだろう。
空
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水
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自分
自分の過去
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かかわったすべての人
時間
空間
認識できる事
全部
愛おしくなるに違いない。
私はその感覚を
いつも
認識できるように
なりたいと考えている。
私にとって
こうして死について
書き残すこと
考えること
それはとても
大切。
多分、「死」が見えると
他人と比較する馬鹿げたことや
他人に対するすべての無駄な思考は
消えていくと思う。
「死」を
間近に感じるほど
それらの
どうでもいいことは
無くなっていく。
ほんとうに大事な
真実、本質だけになっていく。
逆にいうと
死を意識して
考える必要が無いことは
私にとって
不要だということだ。
「死」を意識するで、
本当に必要なことと
不要なことが
明確になる。
「死」は
「どう在りたいか」
「どう生きたいか」
を直球で
狂いなく
聞いてくる。
あなたは、その問に
視線をそらさずに
答えることができますか?
「死」は
影のように
常にそばにある。
この影が
私を捉えてしまう前に
その存在を
「意識する」
ことが最重要だ。
そう、
思う。
あなたは死についてどう感じてますか?
どう考えていますか?