最近はネットが発達し、
余計バランスがもとめられる。
自分が自分として立っていられる事の難しさ。
自分の中に他者の目を作ってしまう。
かなりの割合の人が。「周囲に対する自分」を無意識のうちに感じ、自分の行動は、他者がどうみるか、と言う観点から決定されているのである。実際に他者が口出しするわけではない。自分が、他者がどうみるかを想像しているだけだ。
「他者の目」が実は自分の中にある。つまりは、他者ではなく、「自分の目」なのである。
このように、仮想の他者。仮想の社会を。自分の中に作ってしまうことを、時には「自意識」と呼ぶことがある。
ネットの普及によって、この自意識が平均的に活性化していることは、おそらく誰もがかんじるところだと思われる。ネットは、仮想の「他者」や「社会」を故人の意識の中に構築するのを促す機能を有している。実際には、個人が感じるほど注目していなくても、「みんなが自分をみている」と容易に意識できる、そう錯覚できることが、精神の安定をもらたす効果もある。すなわち、はけ口として利用できるためである。
このような仮想の人権関係も「散らかった自己」とみることが出来る。
その「散らかった自己」を整理・整頓することが、僕は大事だと考えている。何故なら、現実を見ることが客観であり、地に足のついた思考が、社会に貢献するものとなりうるからだ。
自分自身を整理・整頓するということは、このように自身の現状やみたいを考え尽くすこと、と言い換えても良い。自分を考えるとは、自分と社会との関係を考えるということと、ほとんど同じである。自分が何者であり、どのような可能性を持っているのか、考えることだ。(略)
自分自身を整理・整頓するとは、簡単にいえば、自分が生きるうえで「一番大事なことは何か?」あるいは、「目指しているものの本質は何か?」を考えることだろう。それを考え尽くせば、余分なものが自然に排除され、頭はすっきりするし、行動も洗練されるように思う。
人間は兎に角雑念が多い。いろいろな感情を抱え、ときにはそれを無駄に増幅させたりする。
行動の多くは周囲に流されたものだし、周囲のためにやっていることがほとんどだ。自分が何をしたいのかもわかっていない。
そう、その通り!!
だからこの本が私には刺さる。
著者はいう。
それは自分が生きることの本質なのか,と自問することを忘れないようにしたい。
子育てであれば、最も重要なことは、子供の命を守ることである。愛情などはその次のことだ。その本質を確認すれば、ほとんどの問題が整理・整頓されるのではないか?
仕事であれば、その本質は何だとろうか?人によって違うと思われるが、多くの場合賃金を得ることが目的である。自身を成長させるため、誰か他者の機嫌をとるため、世間体のためなどは雑念である。
その第1の目的を思い出して、目の前の小さな問題を俯瞰してることで、冷静になれると著者はいう。
人間の厄介な持ち物として「感情」があると私は思う。
それはとても素敵であったかいものだ。
私は大好きだ。
でも時として、私に対して猛威を振るってくる。
ほとんどの場合、本質や真の目的から目を逸らしてしまう原因は、「感情」にある。感情というのは、問題を見誤らせる。感情が作った幻想で、進むべき先が見えなくなってしまうのだ。
客観的に見れば、さほど大きな問題ではないにもかかわらず、感情がそれを増幅して見せることが多い。行く手に立ちはだかる障害として、すぐにでもそれが自分に迫っているように見せる。もっとも問題なのは、その障害のために、先が見えにくくなることである。一度、このように感情に支配されると、どの方向にも壁が立ちはだかっているような感覚に陥る。ここから抜け出すにはどうすればよいのか、と途方に暮れることになるのである。
だが、それらの壁は自分が作ったものだ。自分の感情が育てた障害なのである。「そんなことはない、あいつが自分を陥れようとしているのだ。」と主張されるかもしれないが、どうしても考えられる場合は、警察なり第3者に相談するのが良いだろう。
人間の精神は自分をかばうようできている。基本的に自分びいきだ。したがって、主観的な観測をすれば、自分は正しい、相手が間違っている、という判断に自然になる。しかし、相手も同じ感情で判断しているから、当然ながら争いになる。
そうそう、よくこういう問題ってあることだ。
私が相談を受ける労働問題も、ほとんどこのケースだ。
労働者の主張と会社の主張は、お互い自分正しいの一点張り。
自分側から見ると正しく見えてしまうのだ。
個人個人がその感情の罠に気が付き、対応能力をつけていくこと。
これが争いの減少につながりそうである。
感情的な判断ばかりしていると、その人の周囲は、矛盾する理論でちらかってくる。はたから見ると、どんな理由で判断しているのかが、見えない。つまり、理屈がない人とみなされるだろう。
理屈を持っていれば、それを説明することで、話は整理される。すべてそこへ行きつく。その人の理屈がわかれば、その人の考え方も理解でき、人間として信頼することができる。人として信頼を得るとは、理屈を持った行動を他者に認められることだ。どんな場合にどんな行動をとるかが、理屈から予測できるから、周囲が安心して頼ることができる。
一方で感情的な人は、予測ができないため、信頼を得ることができない。何をするかわからない人間、というレッテルを貼られる。つまり、信頼を得て、他者に使ってもらえる人間は、人間として片付いている必要がある。少なくとも、そう見えるようでなければならない。これは、見た目だけではわからないものだ。その人物の日頃の言動を観察するしかない。だから、もし自分を使ってもらおう(つまり、仕事をもらいたい)と思ったときは、「片付いているな」と思わせることが大事だ、という話になる。
そのためには、感情を抑制することが第一条件である。
気分によって大きく素行がばらつくようでは、外から見てマイナスポイントになる。日頃のちょっとした会話や、何かの指示に対する応対など、本当に細かいところに、その人物の「片付き度」が現れるものである。
私は片付いているだろうか?
どうだろう。自信はない・・・
それに自分を100%客観的に見ることなんて
不可能だ。
そもそも私は私びいきだ。
難しいに決まっている。
それでもそのことを意識していれば、
私は片付いてると思える日が来るのだろうか・・・